こんにちは、マシュマロです。
まだまだ寒い日が続いていますが、皆様いかがお過ごしでしょうか?
少しの期間、ブログの更新ができませんでしたが、その間に沢山の感情と向き合う時間を持つことができ、気づきを得たこともありましたので、少しだけシェアさせて頂きます。
個人的な内容となりますし、少し重い内容も含まれているので、興味のない方は、他の記事を読んでくださいね。
新しい年2019年を迎え、ますます目醒めることを意識しながら生活していく中で、父の病気が発覚いたしました。
検査を重ねる中で、私が想像していた結果よりも悪く、出来るだけ早い方がいいということで、急遽入院・手術をすることになりました。
『今』を大切に生きる上で、その時の感情はやはり父と過ごしたいという気持ちが強かったこともあり、楽しみにブログを待っていてくださっている皆様に、記事のお届けをすることができず、申し訳ございませんでした。
またゆるりと更新してまいりますので、よろしくお願いいたします♡
今後も再手術の予定がありますので、またブログの更新が遅れることもあるかと思いますが、その際には過去の記事をお読みいただければ、とても嬉しく思います。
自己統合を目指して日々歩んでいるわたしたちは、自分では気づかなかったとしても、日々少しづつ進化しています。
ですので、同じ記事であっても、あの頃に理解し辛かったことが、今はスムーズに分かると感じることもあります。
時間がある際には是非一度、読み返してみてくださいね♡
過去の傷

数カ月前、父の日の頃でしょうか。
何かの番組で、あなたはお父さんの事が好きですか?
そんな風に道行く人に聞いて回っている番組がありました。
沢山の女性が、
「大好きです」
「仲が良いです」
「自慢の父です」
そんな風に笑顔で答えているのが印象的でした。
もちろん、テレビ番組ですので、仲が良い親子にフォーカスして編集されていることも分かってはいましたが、仲が良い父娘を見て、とても微笑ましいなと感じると同時に、
羨ましいな。
わたしは、父の事が大好きだと言えないな。
そんな風に感じている自分がいる事に気づきました。
わたしと父とは仲が悪いわけではありません。
けれど、いつからか、父はわたしの事を理解してくれない。
わたしの意見はいつも否定されるのだから、話すだけ無駄だと思うようになっていました。
また、亭主関白で、母を気遣うこともなく、家事も手伝わない、偉そうで自己中心的な父に嫌悪感を抱くこともありました。
昔は、父親の事が大好きでたまらない子供だったのに、いつから自分はそんな風に変わってしまったのだろうか。
そんな風に、考えるようになりました。
それは同時に、過去を振り返るということであり、わたしの中では、ある意味とても苦痛な感情に触れなければならないことでもありました。
幼少期の思い出
小学校に入る前の小さい頃は、父に沢山遊んでもらい、色々な場所に連れて行ってもらいました。
本当に色々な場所に連れて行ってもらった記憶があります。
朝は近所の喫茶店にモーニングに連れていってもらったり。
遠くの公園に自転車で行く時には、途中のカフェでパンケーキを食べさせてもらったり。
いつも膝の上に乗せてもらい、父が会社に行くのを玄関までお見送りするときに父から飴を貰うのが大好きでした。
父からのプレッシャー
けれど、大きくになるにつれ、怒鳴られる事、叩かれる事の方が多くなっていきました。
父は、昔からとても頭が良く、勉強もとてもでき、仕事もこなせる人でした。
寡黙な人ではあるけれど、会社では地位を得ていましたし、部下からの人徳があることも、偶然にも友人の旦那様が父と同じ会社に勤め顔見知りな事もあり、そのような話しを聞いたこともありました。
他人には優しく出来る父も、自分の子供に対しては、とても厳しい人でした。
とても優秀な人であるが故に、優秀でなく、勉強が苦手な私が許せなかったのでしょう。
「どうして、こんな問題も分からないんだ」と、よく怒鳴られ、よく叩かれたものでした。
母からのプレッシャー
母もまた、周囲の目を異様に気にする人でしたので、とても厳しい人でした。
私には、姉がいるのですが、姉もまた父に似て、とても勉強のできる優秀な人でしたので、
わたしがどれほど睡眠を削って勉強し、良い点数を取っても、クラスで1番の成績をとっても、母からは、
「お姉ちゃんなら、あなたの学校なら学年で1番をとれるのに」
「98点なの?この2点は勉強していてなかったから取れなかったのよ」
そんな風に常に姉と比較され、できないことを罵られる毎日でした。
生まれた無価値観と劣等感
どれほど頑張っても、父からも母からも褒めてもらえることはなく、姉と比較され非難される日々に疲れ果て、
どうせ、認めてもらえるはずがない。
わたしは、ダメな人間なんだ。
頑張っても意味がないのだ。
いつからか頑張ることを辞め、認めてもらうことを諦めました。
そんな風に、私の中で何かが崩れ、無価値感と劣等感がとても大きくなっていったのです。
奮いだした勇気

母の希望する高校へ進学し、ようやく毎日の習い事地獄から解放されたわたしは、大嫌いだった英語に興味を持ち始め、海外の大学に進学することに興味が湧きました。
その時初めて、勇気をだして、わたしは自分から、父に自分でしたいことについて話しをしたのです。
けれど、結果は、
「社会を知らないお前が海外にでるのは危ないからダメだ」
その一言でした。
何度も何度も話し合いを試み、分かってもらいたい一心で一生懸命話しをしましたが、取り入ってはもらえませんでした。
姉の友人が行ったように、海外の大学に行けばいいとパンフレットを取り寄せ、話しをもってきてくれた母も、父の意見を聞いた瞬間、
「家から通える大学にしか通わせない」
そんな風に味方になるどころか、あっさりと意見を翻しました。
この時から、わたしは父にも母にとっても、『わたしの希望』などどうでもいいのだと感じたのです。
ただ、彼らの望むように、生きることだけを求められているのだと感じました。
無意識につけた色眼鏡

そのような人生を歩むうちに、父に本音で話すことをやめ、父とは少しずつ心の距離が出来ていきました。
また、母からも家のことに興味を示さない父への不満をよく聞かされていたこともあり、父に対しての嫌悪感はますます強まっていきました。
そして、無意識に父に反発するようになっていったのです。
父に何かを相談することもなく、どこかで距離を置き、当たり障りのないように接するようになりました。
どんな決断も自分でし「こうすると決めたから。」
そんな風に結論だけを告げ、父の意見には耳を傾けることもしなくなりました。
何十年もの間、『父はこういう存在だ』そんな風に、気づかぬ間に自分で色眼鏡をつけて生きていたのですね。
けれど、真実は、そうではなかったのです。
色眼鏡をつけていたから、見えていないものが本当は沢山あったのです。
今回の父の入院は、ずっと避けていたお互いの想いについて互いに話をする、とても良い機会を与えてくれる貴重なものとなったのです。
長くなりましたので、続きはまた次回書きますね。
皆様の1日が愛と幸せに満ちたものでありますように♡
マシュマロ